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ヤマトの地名変化と日本国呼称の初出

einbahnstrasse > 12世紀以前の首都 - 隋・唐 > 

古墳時代以降、奈良時代までは、倭国から日本国へと列島が変化する時期である。

そもそも、古代奈良の地名は、現在の宇陀郡・桜井市辺りをさす山門から、奈良盆地中南部の倭、そして、奈良盆地の大和といった呼称変化を遂げている。

少し詳しくたどろう。

藤原京跡『折口信夫全集 第六巻 萬葉集辭典』と『折口信夫全集 第九巻 國文學篇3』によると、『万葉集』では、「大和」は山門とも記され、伊勢街道によって分断されている、現奈良県桜井市・宇陀郡を中心とした南北の山地、もしくは、山麓一帯であった。政権の移動とともに、奈良時代には奈良盆地中南部を指すようになった。地名として利用される大和が、ほぼ奈良県と同義に利用されるのは、江戸時代以降である。

さて、国号日本の初出であるが、網野善彦によると、天武朝の681年に起草され、持統朝の689年に施行された飛鳥浄御原令において確認されている。702年には、国号を唐から周と改めた即天武后から倭の使者が日本という国号の使用を認可され、こうして日本国は8世紀初頭に国際舞台へ登場することとなった。

ところが、日本という国号は、「日の本」のことであり、いいかえれば「日出づる処」という点から、西に位置する唐や天竺に対する自立意識が潜んでいた。平安期には公家の間で、京都の朝廷から太陽が昇っていないではないかと疑問視されている。当然ながら、ハワイから見れば、日本という国号は「日没する処」という限界を備えている。

なお、東という方角を意識する発想、いいかえれば、東方への志向は、ユーラシア大陸住民の一般的な傾向だといえる。東アジアでは風水にも関連している。東方への志向を考えるうえでのキーワードはオリエンタルオリエンタリズムである。

また、方角を逆に考えてみると、大阪府羽曳野市・藤井寺市に広がる古市古墳群など、4世紀末から6世紀前半頃にかけて作られた古墳が、奈良盆地から見た「西側」に集中している理由も分かる。奈良盆地からみた金剛山や葛城山、それに二上山などの山々を越えた場所は死者の国という観念で捉えられていた。なお、古代における大阪府の重要性は、他にも、4世紀後半に朝鮮半島との緊張関係にあった軍事的拠点という意味が大きい。

【参考文献】
網野善彦『「日本」とは何か』講談社、2000年