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中世の動揺~日本国の事実上の崩壊

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モンゴル帝国

東アジア状勢と元寇

まず、13世紀後半の東アジア状勢をみてみよう。「宋」倒壊後の中国大陸では、モンゴル高原を起点にチンギス・ハーンが1206年にモンゴル帝国大モンゴル国、通称)を建国していた。モンゴル帝国は世界史上最大の面積を誇った国家である。

文永の役

モンゴル帝国は、既に侵略済みの高麗を通じ、1266年に日本へ通交を求める使者を派遣したが、日本は数度にわたり黙殺した。1268年(文永5年)に、唐滅亡後の中国政権の一つ南宋の攻略を開始した後、74年(文永11年)に、朝鮮半島の月浦(現/馬山)を出発 し、博多、箱崎おける戦闘を始めた。このとき、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人が動員されたといわれる。モンゴル帝国の侵攻は急ピッチで、10月5日に対馬、14日には壱岐を攻略し、19日には博多湾、20日に東進し、百道原つづいて博多、箱崎へ上陸(以上、日付は太陰暦による)。

弘安の役

また、モンゴル帝国は、1281年(弘安4年)に、高麗軍中心の東路軍4万、旧南宋軍中心の江南軍10万の軍隊が九州北部へ出発した。日本側が博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いていたため、東路軍より先に到着した東路軍は、防塁のない志賀島に上陸するが、そこに構えていた日本軍から一斉攻撃を受けた。文永の役の教訓から元軍の戦法に精通していた日本軍は優勢に戦い、ゲリラ戦術も含めて、元軍を海上に留め続けさせた。東路軍は、遅れてやってきた江南軍と合流したが、元軍からすれば、暴風雨が起こった上、背後に玄界灘(夜間渡航の怖さを東路軍が熟知していた)が控えていたため、身動きが取れず、南宋人以外は日本人によって惨殺された。

※写真は、モンゴル帝国 - Wikipediaより。

元寇以後の日本列島 - 日本国の事実上の崩壊

元寇に対し武士たちが出したはずの奉公と引替えに、御恩を返すことができなかった当時の政府・鎌倉幕府は、武士たちの信頼感を大きく損なうこととなった。

鎌倉からのコントロールが薄らいだ14世紀までには、東国、西国、関東、関西、九州、中国、北国、奥羽などの地域呼称が成立し、再び独立した活動が活発化した。倭寇など日本国の枠を越える商人・海賊も活躍した。

14世紀前半になると、建武新政によって、日本列島は東国・九州・尊氏 VS 西国・東北・後醍醐という政治力学へ動き始める。足利氏支配下の室町幕府は、日明貿易を中心に海外交流を推進したが、京都の朝廷と幕府との関係改善はおろか、元寇以降、列島のコントロール機能は衰えて続けており、回復できないままに、15世紀後半にかけて、各地の守護を中心にした動乱が頻発した。将軍足利氏の権威は凋落し、応仁の乱を発端に、戦国時代、すなわち内乱期へと突入した。

上記のような統率不能状態にあった列島では、九州・瀬戸内海沿海・若狭以西の山陰諸国が朝鮮国王と直接接触する動きがみられ、長野県の善光寺も使者を派遣するなど、国家と別の制度が貿易や情報交換を行なうという事態も頻繁にみられる。他方、東北地方はアイヌとの交流を深める動きが活発にみられた。

元寇に対する解釈について

この戦争については、以下に紹介する網野善彦の考え方が現代のアジア状勢を考えるうえで重要である。

モンゴル襲来後、(…中略…)とくに寺社の側からのさかんな発言を通じて、「日本国」意識、「神国」意識が、それ以前より強まったこともたしかであり、朝鮮をはじめ、沖縄、北海道など列島外の人びとを夷狄視、蔑視する見方が、それとともに多少とも浸透したことは事実である。しかし、それは「日本民族」という意識などとはほど遠いものがあった。
(…中略…)モンゴルと闘うために、日本との連帯を求めた三別抄にみられるような「朝鮮民族」の意識と比べ、それははるかに未熟なものだったことは間違いない。敗れたとはいえ、モンゴルと徹底的に闘った高麗に対し、暴風雨によって難をまぬがれた「幸い」が逆にこの結果を生んだのである。つい四十年前まで※、「神風」が吹くことを期待するようなおろかさをもちつづけた日本人の「民族意識」が、いかに根の浅いものかを徹底的に考えない限り、われわれは、最近の中国をはじめとする東アジア・南アジアの人びとからの批判のような、「恥知らずの民族」という汚名を、いつまでももちつづけなくてはならないことになろう。
※日中戦争・太平洋戦争期、つまり、1930年代~45年を指す。
網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社、1998年、253ページ、初版は1982年

【参考文献】
網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社、1998年