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犠牲国・清朝の展開

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アヘン戦争地図

解禁政策を放棄した19世紀後半~20世紀初頭


※写真はHaiming Liuより

19世紀中葉に内乱へ突入したのは日本のケースと同じである 。清朝(中国)の場合、1851年の太平天国の乱を発端に、1900年の北清事変、と続き、1911年の辛亥革命によって清朝は倒壊した。その後は、中華民国臨時政府が設置されたまま、共産主義勢力が強まり、さらなる内乱期(日中戦争含む)へ突入するという経路をたどった。清朝の旧勢力に対し、資本主義と共産主義の両者が闘った内乱としては、徳川幕府の旧勢力と明治政府の新勢力との場合と異なる。
※朝鮮半島の場合、19世紀末に「甲午農民戦争」が勃発した。

20世紀初頭から、上海・北京に限らず、とくに東海岸部は、一貫してコスモポリタンな文化・風土をもっており、受け皿が広く(母的)先進的なものであった*。また、ヒックスの例から、戦前中国における経済学の水準は日本のそれより遙かに高かった**。林京子のエッセイ「老大婆の路地」によると、少なくとも日中戦争期の上海周辺において、イギリス人は西洋鬼子、日本人は東洋鬼子と呼ばれていた。
*森嶋通夫『日本にできることは何か - 東アジア共同体を提案する』
**森嶋通夫『日本にできることは何か - 東アジア共同体を提案する』、「はじめに」参照。

両国民の共通点は、湾岸部だけでなく内陸奥地まで入り込んだ点、すなわち、他人の玄関だけでなく、家中にまで土足で上がり込んだ点にある。敷衍すれば、日本人にとってアメリカ人は東方鬼子とでもいうべきか。いずれにせよ、戦後、中国が自身の「鬼子」である日本に取ってきた態度と、日本が自身の「鬼子」であるアメリカ合衆国に取ってきた態度は対照的であり、私は中国の姿勢の方が「自然」であると考える。なお、東洋鬼子については、以下の文献に詳しい。武田雅哉『<鬼子>たちの肖像 – 中国人が描いた日本人』中央公論社、2005年

経済的豊かさとは何か

現在の中国では、中国人向けレストランは格別に安く、抜群に美味しいことはよく知られている。当然、烏龍茶などが基本的にはお変わり自由である。日本の場合は、喫茶店やレストランなどが仕入値、労賃などの高値によって、コーヒーが400円程度という高額な茶文化を生み出すにいたり、喫茶する場所にも関わらず、日本茶は既に存在していない…。

現代中国の女性の地位

中国では、米・英・仏・独などの先進国が苦闘の末に勝ち取り、日本ではいまだ不可能な「平等」を既に実現している。それぞれの国民男女間の上下関係を知るには、レストランにいるカップルのどちらがコップにお茶を入れるか、あるいは、皿に料理を盛るか、あるいは、街路で冗談を言った方に軽く蹴ったり叩いたりするのはどちらが多いか、といった点を見るだけで十分理解できる。 また、政府レベルでの男女平等観は性的犯罪の懲罰度合いから明瞭に知ることができる。痴漢という犯罪の事例を引いておくと、東京都の条例では、「初犯であれば6月以下の懲役または50万円以下の罰金が科され、常習犯であれば1年以下の懲役または100万円以下の罰金」であるが、中国では基本的に初犯でも懲役17年。また、極端な例では、性転換手術による戸籍変更を世界で2番目に認可されたことも記憶に新しい。

現在の中華人民共和国

上海  - 2005年12月現在の中国が共産主義国か非共産主義国かという問題については、政治体制、経済体制、学歴社会の3面から考えるのが無難である。おそらく、共産主義国であると簡単にいえるような閉鎖的状況はクリアされているとみることができるだろう。

政治体制

共産主義国家であるが、政府首脳陣には理工系大学出身者や小学校卒業者などが多い 。

経済体制

計画経済であるが、1990年代に市場経済を導入し、部分的に資本主義化。

学歴社会

21世紀に入り過激化しているが、人生のリスタートをかけやすい土壌。高い英語教育。

また、一党独裁政治に対する批判もあろうが、戦後の日本も自民党独裁により、実質的に民主主義ではなかった点が共通しており、アジアという地域がどれほど民主主義の育ちにくい不宇田であるかを逆に示唆している。なお、中国共産党によるプロパガンダについては、インターネットによる情報の平等性や大量に国外へ流出している留学生たちの活躍によって、一定の緩和がなされることは間違いないだろう。

神戸居留地と元町中華街(南京町)~華僑の一面

神戸中華街19世紀中葉の2度にわたるアヘン戦争の結果、大陸在住の中国人をはじめ、4つの口の一つであった長崎在住の中国人も大阪の川口へ移住した(川口居留地の形成)。浅瀬であった大阪港よりも深瀬であった神戸港の方が外国船にとっては都合が良かったため、居留間もなく、外国人は神戸元町へ集まることとなった。

今の三宮周辺では、甲午中日戦争(日清戦争)や日中戦争を介しながらも中国人と日本人は強制してきた。開港場では、両国民とも、欧米諸国の人々向けの職業、財・サービスの提供が多かったが、欧米人も窮屈な生活を強いられていた。19世紀後半における南京町の中国人労働者の職種には、貿易商、金融(両替商)、商業書類の印刷・製本、料理、理髪師、洋服仕立、製靴、塗装業、紅茶製造人、画家、医療伝道師、西洋人家庭の使用人等々がいた。

1899年に「内地雑居令」が公布され、居留地以外でも外国人の居住が公的に認可された。世紀転換期における日本企業の雇用状態を糾弾し、労働者対策を論じた横山源之助は、『内地雑居後之日本』の例で、外国人の自由な居留、在住が国内産業の育成を阻み輸入超過を増大させると憂えているが、横山には、共生と機械輸入が連動する発想があり、雑居の理解力不足が明らかである。国内に向けられた労働者意識の高揚などには関心が高い横山であっても、国外という発想では唐突に内側に向かうという列島人の典型パターンを露呈している。

※写真は神戸華僑歴史博物館パンフレットより

【参考文献】
森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店、1999年
森嶋通夫『日本にできることは何か - 東アジア共同体を提案する』岩波書店、2001年
横山源之助『内地雑居後之日本 他一篇』岩波書店、1954年