日本国の崩壊 – 一国経済の不可能性
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特に薩摩・対馬・長崎の3ヶ所周辺では、海外情報が盛りだくさんだった。特に長崎は、リアス式海岸、83の港湾、971の島嶼を備えており、オランダ人だけでなく中国人も多数来航していた。鎖国政策を敷いていた江戸幕府は、対オランダ貿易以外の交易は薩摩藩や長崎奉行所(時には大村藩)に委託したため、薩摩・琉球・台湾・中国という関連や、長崎・対馬・朝鮮半島・中国・オランダといった繋がりが濃密になった。
※地図はMapas Históricosより
18世紀末 - 忍び寄る「怪物」たち
18世紀は、それまで東アジア諸国で活発な経済活動を行なっていたオランダの権威が落ち、産業革命による工業化を成し遂げたイギリスが覇権を握る状勢となっていた。18~19世紀にかけてイギリスで起こった工業部門での諸機械の発明や、それに伴った生産性の向上は、一般的に産業革命と呼ばれ、世界で最初の資本主義国家とも位置づけられる。その後に資本主義化した諸国も含め、19世紀から20世紀の間に資本制経済システムを導入した国々は、工場制機械工業+海外植民地という構造を抱えた。以下、日本史で幕末といわれる時期の19世紀東アジア状勢を参照しておこう。
- 新国家の登場…アメリカ独立宣言発布(1776年)と独立戦争終結(83年)。
- フランスの動乱…バスティーユ襲撃とフランス革命戦争(1789年~)。
- ロシアのラクスマン来航(1792年)…通商を要求するが松前藩経由で幕府は拒否。
- ナポレオン戦争…オランダ崩壊と占領(1793年)以後、ヨーロッパ全土を巻き込む。
- フェートン号事件(1808年)…目的は長崎周辺のオランダ船拿捕と欠乏食料の供給。
- ゴローニン事件(1811年)…ロシア帝国の東方拡張下で、蝦夷地(近世は松前藩)・樺太で接触。
- 異国船打払令(1825年)…趣旨は、列島要所の沿岸に接近する外国船に対する砲撃、追い返し。
- アヘン戦争(1839~1842年) …イギリス・インド・清の三角貿易を背景にした阿片の密輸が発端。 首都北京に近い天津直撃 など、以後、清は欧米列強の餌食に(米の望厦条約、仏の黄埔条約等)。
- 薪水給与令(1841年)…外国船に対し、食料・燃料の支援を認可(天保の改革の一環)。
- 欧米列強の軍艦来日急増(1843~53年)…日本列島への来日は欧米列強による対清侵略の一部。
東アジア再編成と日本国の崩壊
上記のような欧米列強の支配に対し、清朝・徳川幕府の両政府は開国政策を取り、欧米列強と不平等条約を締結することとなり、関税自主権なし・治外法権という状況が生じた。そのような事態のなか、朝鮮半島は依然として清朝を中心とした冊封体制を堅持しつづけ、動乱の世紀転換期を越えた1910年、日本が日韓併合(韓国併合)を行なうことで、保護国となる代わりに開国することとなった。
徳川治世下の日本国は、安政の大獄(1858年)で発生した内乱や欧米列強に対する小競り合いが多発し、1868年の明治維新以後も内乱は継続された。1867年の大政奉還をきっかけに、翌年には王政復古の大号令が出されたが、内乱の収拾はつかなかった。
69年まで続いた戊辰戦争では、徳川派を擁護した東北諸藩に厳しい戦後処理が行なわれ、明治政府は、71年の廃藩置県によって列島再編を試みたものの、翌72年の琉球処分では日清間で軋轢が生じ、2年後の台湾出兵へと繋がったように、極めて好戦的な政府体質が露呈していた。
77~86年まで続けられた西南戦争によって、明治政府にとっての反逆分子はほぼ壊滅し、1889年に大日本帝国憲法を発布し、以後、欧米列強タイプの帝国主義の輸入急進に向かう。


