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取るに足らない植民地日本 - ヨーロッパ系銀行の支店網の展開から

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石井寛治がまとめた「日本・中国の主要外国銀行の店舗分布(18869年)をみると、インドのボンベイ支店を構えていた複数の銀行、特にイギリス系の銀行は、アジア進出に向けて、インド→中国→日本という順序で支店網を拡大していることが確認できる。
石井寛治『近代日本金融史序説』東京大学出版会、1999年、21ページ。

元・横浜正金銀行すなわち、1860年代の外国銀行は、香港支店・上海支店をオープンさせた後に横浜支店開設の機会をうかがっていたのであり、中には実際に支店を営業した銀行も存在した。イギリス系のアグラ銀行、マーカンタイル銀行、チャータード銀行、香港上海銀行、フランス系のパリ割引銀行等である。

しかし、1880年前後になると、日本の金融機関が創出されはじめ、既に日本へ進出していた諸行の多くが深刻な経営難に陥り後退した。イギリス植民地銀行とドイツ・フランスの銀行を比べると、前者は中国・日本での活動が長かったが、逆に銀価圏での経済活動から抜けることができない構造上、後者よりも銀価暴落の痛手を蒙った点が大きな要因である。

そして、銀貨暴落の機会を利用できたのは中国ではなく日本であり、植民地銀行群の再編のあり方が中日では大きく異なる。つまり、外国諸銀行の後退、すなわち、撤退度合いは中国よりも日本で顕著であり、外国諸銀行は、横浜支店を捨てても、上海・香港の支店は死守したのである。そのようなメリットをもとに、1893年には横浜正金銀行が上海・香港支店を開設するに到った。

写真は、旧横浜正金銀行上海支店。パーマー&ターナー事務所がデザインし、1923年から24年にかけて建造された。現在は、中国工商銀行の上海支店営業部となっている。巨大な柱を備えた新古典主義な風格で、建物内の一部に日本の武士や菩薩の彫像が残る建築である。上海市中山東一路24号。