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武術から武道へ

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嘉納治五郎

講道館の展開

井上俊の『武道の誕生』によると、柔道という名称は、講道館の創始者である嘉納治五郎が1899年に柔術を元に一般化させたことを嚆矢とする。

以後、柔道については、警視庁の武術に一歩リードした形で近代化を推進していく。剣道については、「無刀流山岡鉄舟の流れを汲む人びと以外は、剣術あるいは撃剣といっている人が多い」(同書、116ページ)。

大正末期から昭和初期にかけて講道館では他武術との交流教授が行なわれたようである。棒術指導者である日置隆介らが講道館と関係をもっていたのは、そのためである。

大日本武徳会の展開

他方、1895年に、平安建都1100年記念の一環として、華族・政治家(伊藤博文ら)たちによって組織化された大日本武徳会は、柔道だけでなく、剣道・合気道・弓道等、様々な武道を扱い、1901年に前警視総監の大浦兼武が副会長になって以来、「各府県の警察組織を利用して会員を増やし、一九〇一年には会員数百五十万を超え」(同書、104ページ)、1909年には講道館とともに財団法人化した(この時点での講道館入門者数=総館員数は約1万)。

大日本武徳会は、1905年に武術教員養成所を開設させ、11年には武徳学校と改名、翌12年には武術専門学校に昇格した。ここに、武術全般が武道という呼称で定着した。その意味では、講道館が導入した柔道という呼称は、当時の武徳会副会長を務めていた西久保弘道に好意的に受け止められた。

しかし、それまで、講道館との申し合わせで、武徳会は独自に免許できる柔道段位を3段までに限定されていたため、武徳会幹部として西久保は4段以上の高段位の出すべきだという主張は譲れず、1926年に西久保が東京市長となり武徳会を去るまで、双方の軋轢は多かった。

なお、不遷流柔術の田辺又右衛門についても特筆すべき事柄がある。田辺は講道館の大阪支部開場に際し、道場破りを行なっており、嘉納以外の柔道家をなぎ倒したとされる。しかし、嘉納は武術や柔術をそのように利用することは間違っていると指摘し、田辺との乱取りを拒否した。ここに、両者の置かれた立場の相違、すなわち、制度化される柔道と制度化されない柔術との違いが明らかに見て取れる。その後、田辺は、神戸の諏訪山御殿に設置されていた大日本武徳会兵庫県支部で教鞭を取ることとなった。

政府・警察のバックアップが大きかった大日本武徳会は、終戦直後の1946年に解散している。

二面性をもつ伝統の創造

こう考えると、武術から武道への近代化は、民間武術から開始された講道館タイプと、官公庁主導の下で形成された大日本武徳会タイプの2つに分けられる。

終戦は、国家が変わったという画期にあたるが、そこで後者の武徳会が駆逐され、講道館柔道が世界的な柔道ルールをはじめとする近代化を遂行することとなった。ここに、日本の柔道が伝統として形成されたという両義的でタイムラグのある伝統が発生したとみることができるだろう。

※本稿を執筆するにあたり、「財団法人 講道館 図書資料部」の方々にお世話になった。記して感謝する。

参考文献

井上俊『武道の誕生』吉川弘文館、2004年

関連リンク

講道館 - 講道館柔道の公式サイト。